太平の世に、弓有り

 ――1622年。

 私が福島正則という人物に仕え始めてから、既に数ヶ月が経つ。その間に私が学んだことは、兎に角この男が酒飲みだということだ。
 毎夜のごとく、狂ったように酒を飲む。その老態には、かつて猛将と名を馳せた姿は微塵もない。人間堕ちれば堕ちるものだな、と私はこの老人を呆れ半分で見ていた。
 その日も、福島正則は赤ら顔で酒を煽っていた。あまりの泥酔ぶりにさすがの私も酒をやめるよう諫めたが、聞き入れない。終いには、何やらうわごとを呟き始めた。
「笑っておるのだろう」
 最初は、私に向かって言っているのだと思った。だが、何やら違う。
 聞き耳を立てていると、老人はこう続けた。
「豊家を守ると言って、このざまよ。ほれ、俺を笑っておるのだろう、佐吉」
 佐吉、誰のことだろう。
 考えを巡らせて見て、かの石田三成の幼名だということに気がついた。
 石田三成は関ヶ原の戦における西軍の将である。関ヶ原敗戦の折に、六条河原で斬首された。対する福島正則は、東軍の主力武将。同じ豊臣子飼いの武将でありながら、ふたりは互いに反目し合ったと聞く。
 ふと私の中で、好奇心がむくむくと沸き起こってきた。
「このざまとはどういうことだ、市松」
 ためしに、この老人の幼名を耳元で囁いてみた。
「ああ、佐吉。見ての通りだ」
 ほんの冗談のつもりだったのだが、意外なことに反応があった。その後も、老人は続ける。
「豊家は潰えた。俺も改易に蟄居。五十万石を失った。あの狸めにしてやられたわ。全部、お前の危惧した通りになったわけだ」
「俺の危惧した通りに、か」
「そうだ。お前も草葉の陰から俺を笑っているんだろう。結局、俺ひとりでは何も出来なかった。狸の思う壺だ。虎之助もお前の所に先に逝っちまった」
 虎之助。加藤清正のことか。
 私は納得すると、思うままに口を開いた。この状況を面白がる自分がいた。
「なぜ、東軍についた」
「さあて、何故かな」
 とぼけたような口調で、老人は嗤う。
「狸に乗せられた。徳川の下で豊家の存続を願った。そう言ったら聞こえがいいんだろうがな。要するに、お前が憎かったんだよ、佐吉」
 さすがに私も二の句が継げないでいると、老人は快濶な笑い声を響かせて見せた。
「叔父貴のそばに居るお前が羨ましかった。叔父貴に重用されるお前が羨ましかった。こんな奴に豊家を好きにさせるかと思った」
「……そうか」
「はは。まだお前は俺を責めているんだろう。執念深いお前のことだ。俺にはわかるさ」
 いつしか、老人の頬には汗が浮かんでいた。
「正直、死んでいった奴らが夢に出ない日はない。叔父貴まで出てきて俺を責める。こら、市松。なんてことをしてくれたんだ、とな」
「秀吉様が」
「ああ、そうだ。それにしても不思議だな。お前が生きてた頃はこんなふうに話など出来なかったのにな。夢の中では不思議と素直になれる。ああ、どうせこれは夢なんだ。そうなんだろう、佐吉」
「さあ、知らんな」
「相変わらずだ。死んでも変わらんな」
「お前こそ」
「違いない」
 赤ら顔に、老人は快濶な笑みを浮かべた。それもすぐに、自嘲の影が差す。
「結局、俺は豊家のために何もできなかった」
「それは違うさ」
「いいや、違わんな」
 断言すると、その瞳が深い哀愁の色を帯びた。
「所詮、俺は弓だ。戦国の世では弓は重宝されるが、太平の世では土蔵行きよ」
 言うと老人は、一気に酒を煽った。そしてそのまま、ばたりと前のめりに倒れる。
 慌てて駆け寄ると、老人は静かに寝息をたてていた。そっと私が羽織をかけてやると、満足げな表情を浮かべる。いい気なものだな、と思った。
 と同時に、不思議とこの老人に対する私の見方がほんの少し変わっていた。