宇土の幻

 加藤清正には、ちょっとした癖があった。
 鬱積が溜まると、夜中ひとりで周囲を徘徊するのである。それが彼なりの気分転換法だった。
 今や熊本城主である彼が、そういった行為を軽々しくできるはずもない。これは彼の近習等を含め、ごく一部の者しか知らぬことだった。
 その日も清正は牢人風の格好に身をやつし、散策に出掛けていた。供も連れずにである。彼は長年の経験から、そちらの方が身の危険が少ないことをよく知っていた。
「一雨、来そうだな」
 呟くと、清正は夜空を仰いだ。
 雲が早く流れていた。湿り気を帯びた風が、西の方から木々をざわめかせながら吹き付けてくる。
 ぽつ、と一滴が清正の額に当たった。それはすぐに大粒の雨となり、終いにはざあざあと降り出した。慌てて清正は近くの大木に雨宿りする。
 一息つくと、清正は顔を曇らせた。
「激しい雨だ。暫く帰れんな」
「まったくです」
 相槌を打たれたことに驚き、清正は慌てて横を見た。
 そこには、青年の姿があった。身なりを見る限り、商人のようである。背には商品らしき荷物を背負っていた。
(しかし)
 何者だ、と清正は目を細めた。清正は根っからの武人である。その彼が話しかけられるまで気配に気付かないとは、到底考えられないことである。
「おまえ、商人か」
 詰問するような口調で、清正は話しかけた。ゴロゴロと、背後では雷が鳴っていた。
「ええ、朝鮮から仕入れた漢方を売っとります」
 臆することなく答える商人を見て、彼はふと小西行長を思い出した。
 行長は先の関ヶ原での敗将である。西軍に与した為に六条河原で斬首された。清正とは秀吉の近習時代からの顔馴染みである。行長は元々、堺の商人の出であった。
 商人のその真直ぐな物言いが、どこか行長を思い出させた。
「ほう、漢方か」
「興味がおありで。ならば、是非おひとつどうですかい」
「いや、いらん」と言いかけた清正だったが、そのまま凍り付いてしまう。
 ぴかり、と光った雷に商人の顔を初めて見たからである。
 線が細く、どこか神経質そうな顔立ち。行長がまだ彌九郎と呼ばれていた頃のそれに瓜二つだった。
「あっしの顔に何か付いておりますかい」
 商人が問いかける。その言葉で、清正は我に返った。
「……いや、昔の馴染みに似ていてな」
「そいつは奇遇ですなあ。どんな人だったんですかい」
 興味津々、といった様子で商人が聞いてくる。
 不躾な奴め、と清正は顔を顰めたが、雨はまだまだ上がりそうにもない。こういった話で時間を潰すのも良いか、と思い直す。
「難しいな。十代からの長い付き合いだった。しかし、決して親しい間柄ではなかったな。むしろ犬猿の仲と言ってもいい」
 武断派と文治派。法華教とキリスト教。政治においても、宗教においても、常に清正と行長は対立関係にあった。
「思えば、奴とは衝突してばかりだった。好敵手と言っては聞こえが良いんだが、そんな生易しい関係ではなかったな。宿敵、と言った方が適当かもしれん」
 このときの清正は、やたらと饒舌だった。この商人相手だと、不思議と話すつもりのなかったことまで口を出てしまう。
「あっしにも、そういう間柄の奴が居りましたよ」
 不意に、今まで黙っていた商人が口を開いた。少々面を食らった清正だったが、先を続けるよう促す。
「ほう、どんな奴だ」
「やたらと頑固で、それでいて一本気で。なにかと反りが合わない奴でした」
 なにかを懐かしむように、商人は言葉を紡ぐ。
「でも、今だから言えるんですけどね。正直、あっしは奴に憧れとりました。あっしにはとても、ああなることは出来ません でね。竹を割ったように潔い奴の気性が、羨ましかったんでさあ」
 語る商人は、どこか誇らしげでさえあった。自然と、清正も口を開く。
「俺もそうだった。奴はやたらと頭が回って、いつも一歩先を見据えていた。あの頃、俺は今を生きるだけで精一杯だった。すべてを達観したような目で周りを見渡す奴が、無性に羨ましく思えた」
 後半の方は、既に商人に言ってはいなかった。清正は商人の中に、行長の影を見ていた。
「奴は」
 一息おくと、清正は堰を切ったように捲くし立てた。
「俺を許してくれるだろうか。たくさんの犠牲があった。奴も死んだ。あの頃は、あれが俺なりの正義だった。だが正直、今は自信が無いんだ。果たして、俺は豊家を――」
「大丈夫ですよ」
 清正の言葉を、商人が遮る。気付くと、清正の頬には涙が流れていた。
「その御方をあっしは存じ上げませんが、たぶん悔いは無いと思いやす。貴方には貴方の正義があったように、その御方にもその御方なりの正義があったのでしょう。だから」
 言葉を区切ると、商人は清正に向かって微笑んだ。暗闇のせいで商人の表情はおろか顔さえ見えなかったが、清正には何故だかそれが分かった。
「だから。らしくないことを言うな、虎之助」
「っ!」
 幼名を呼ばれ慌てて横を向くと、既にあの商人の姿は影も形もなかった。
 ただ呆然と、狐につままれたような顔をして清正は立ち尽くす。
 雨は、既に上がっていた。